話は多少前後します。。。
毎回、大学のコピーセンターで長時間かけて手作りで発行していた会誌でしたが、
毎回何千枚ものコピーをして製本するのは体力的にも、時間的にも限界という事で、
私たちは、格安な製本屋を探しました。
当時は、同人誌の製本っていう事もあまり一般的ではなくて、
少量(100部以内)を印刷してくれる所は少なかったのですが、
福島の新しい印刷所で同人誌印刷を比較的安く請け負ってくれるという所を発見し、
ここに頼む事に決めました。
この時期と、会員さんの急増の時期が重なりました。
会員さんにしてみれば、自分の描いた原稿が、綺麗な本になって送り返される。
そして、色々な会員さんから感想が貰える。。。
恐らく、とても魅力的な会だと思われたのでしょう。
寄せられてくるお便りの反響もとても良いものでした。
本が製本されるとなれば、スタッフの負担も軽減される筈なので
会の存続期限を3年と決める必要はありません。
一気に拡大して、より盤石な体制、いつまでも続けられる様な体制を作れるものなら作ってみたい。Tさんの様に、熱心な会員さんの中から、会の運営を助けてもらえそうな人を募って、スタッフ体制を厚くして、もっと会員さんに喜ばれるような事をしていきたい。
そんな事を思う様になりました。
私は、お便り対応にますます力を入れて、会員さん一人一人がどんな人で、
何を望んでいるのかを知ろうとしました。
広い会場を借りて、本の編集現場を公開して、会員さんと一緒に本を作る機会を作ったりしました。
私は、会員さん=「お客さん」であって、スタッフは会員さんを喜ばせなくてならないと思っていました。
会員さんを楽しませる為に、編集後記でおどけた事を書いたり、
たくさん集まった原稿を全て掲載して、驚く程分厚い本を作ったり、
アンケートを作って、広く作品の感想を集計したりしました。
毎回、どうやったらみんなが驚いてくれるかばかり考えていました。
印刷になって、楽になるかと思いきや、
色々な手間が増えてしまい、少しも楽になりませんでしたが、
会員さんからの好評を頂く事で、苦労も消し飛ぶ様でした。
集まってくる会費に見合わない立派な本を作っていたので、毎回赤字でした。
スタッフ全員、比較的実入りの良いバイトをしてましたので、何とかお金を出しあって維持していました。
会はますます盛り上がり、楽しい雰囲気になりました。
この「楽しい雰囲気」はややもすると、作品よりもコミュニケーションという風潮になってしまい、何よりも作品のクオリティーを求める進歩くんの価値観と微妙にズレてきたのではないかと思います。
ある日、進歩くんが
「休会したい。」と言い出しました。
「自分で会を作っておいて、休会もないでしょう?」
そう言いましたが彼の決心は固く、
それから間もなく私は2代目の会長に就任する事になりました。
会が創立してから、4年半目の事でした。
当時、会員数は約80名になっていました。
全くの自由意志で集まった80名もの人々の集団の運営を、
突然、私が行わなければならなくなりました。
23歳の春でした。