shobuno's blog

shobunoの日記です。日々見たこと、考えたこと、思い出した事などを興味の向くまま書いていきます。

我思う故に我あるのかな?

「思考」というものを。。。 

(あっ、今日はいつもと違ってちょっとややこしいテーマに挑戦です。)

「思考」というもののアルゴリズムを(一部でも良いから)明らかにできないか、

という問題は、私が長い間考え続けているテーマです。

一番自分の身近に「ある」筈の「思考」というものが、

どういう風に出来上がっているのか、考えれば考える程分からなくなります。

今日は一日ジトジトした天気でしたので、たまにはこういう面倒くさい事を

ジトジト考えるのも良いでしょう。。。(苦笑)

 

 

「我思う故に我あり」

 

有名な哲学者、デカルトの言葉ですね。

 

彼の著書「方法序説」の中に書かれている言葉だそうです。

(読んだこと有りません(^_^;)

えっと、意味を簡単に説明すると、一切の事を疑ってみると、

全ての物事の存在は否定できるのだけれど、

「自分は存在するのか?」と疑っている「自分」の存在だけは否定できない。

つまり、考えている自分は確実に存在しているんだという事なのですが。。。

 

 高校生の頃、「哲学」の教科書に出ているの読んで、

「成程!」

と思ったのですが。。。

(当時の私は素直だったので、色々「成程!」と思っていました(笑))

 

でも、本当でしょうか。。。?

 

「我」は本当に存在するとすると、「我」って何なのでしょうか?

それを「アルゴリズム」にしたいのですが。。。

考えれば考える程、答えから遠ざかる様な気分になります。

 

我とは何なのでしょう?

思うとは何の事なのでしょうか?

 

「自分の思考」というものが、何から出来ているのか考えてみますと、

多分、殆どが「過去の記憶」で、

残りが「まさに今の瞬間何かを考えている「何か」」なんだと思います。

もし、私の記憶を全てそっくり他人。。。

例えば妻の記憶に置き換えてしまったとしたら、

多分私は「妻」になってしまうんじゃないかと思えます。

今の自分の記憶が全く無くて、記憶が全て他人の記憶だけしか無かったとしたら、

きっと、「自分」ではいられなくなる事でしょう。。。

 

「思う」とは何でしょう。。。?

多分、膨大な記憶の中から何かを取り出して、

組み合わせる行為なのではないでしょうか?

 

何となくですけれども。。。(笑)

記憶が何も無い状態からは、「思考」は生まれて来ない様な気がするんですね。

 

そう考えていくと、「自分」というものは殆ど記憶そのものの様な気がします。

デカルトが言っていた「我思う故に我あり」という言葉は、

ですから、ちょっとホントかな?? という気がするのです。。。

 

 過去の膨大な出来事と、そのときどう思ったのかという記憶。

それを元にして私はものを「考えて」いるんだと思います。

 

でも、それだけでは有りません。

 

 過去の膨大な記憶の中から何と何を取り出して、

新しい「記憶」を作る何か。。。

それも確かに有るんだと思います。

それは一体何なのでしょう?

 

 今もこれを書きながら、その「機能」をフルに使っているに違いないのに、

その「機能」のアルゴリズムは、全く私には想像する事すら出来ません。

 

確かに有る筈なのに全然見えない。。。

 

うーん、ここがポイントの様な気がするんですけど、近づく事も出来ませんね。。。